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日本昔話 大工とネコ
日本昔話 油のでるやま
8月
日本昔話 奇しき色の大鹿
日本昔話 福助さんの覗きめがぬ
日本昔話 鳥と獣の戦い
日本昔話 無人島にながされた男
9月
日本昔話 ねずみの相撲
10月
日本昔話 ほそごし
日本昔話 かじやのババア
日本昔話 地獄穴の話
日本昔話 熊と狐
11月の結果
【雑記】心もふわふわに
【雑記】ふわふわというタイトルをどう受け取る?
ドリアン・グレイの肖像
【雑記】児童文学に関する本からの幼年童話
【シニアの本棚】『俺たちの箱根駅伝』|やっぱり泣ける
【雑記】児童文学に関する本からの…
【シニアの本棚】『幸せへのセンサー』|幸せはオーダーメイド
【ご報告】おでん文庫の今後について
【雑記】児童文学に関する本からのアンデルセン
本日の肉体労働
2月に読んだ本
【雑記】子どもの想像力とはなんだろう
【シニアの本棚】『キミコのよろよろ養生日記』|著者は大変なのに、笑える
六歳児・我が家の教育方針
本とおやつ その22
結果責任論でも動機責任論でもなく、手段責任論を問え
大阪都構想「否決」、マスコミ「疑惑の報道」がミスリードした結果だ維新に賛成する気は一切ないが、髙橋洋一のいら立ちはよく分かる。投票結果を左右するまでの効果があったかはなかなか実証することは難しいだろうが、マスコミ等の責任は問われるべきだ。結果責任論は手段の善し悪しを問わなくなる傾向があるが、何よりも手段がいちばん重要なのであって、目的が手段の不当性を抹消するのであれば、勝ったもん勝ち、やったもん勝...
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リーダーで読む
鼠小僧次郎吉の面目躍如 映画『御誂次郎吉格子』レビュー
1931年公開、巨匠伊東大輔監督、大河内傳次郎主演の作品。-----------日本における近代文学の受容に伴い、日本の伝統的な作風である勧善懲悪は徹底的に非難され、俗流なものという評価を与えられてしまった。その評価を我々は意識的にも無意識的にも受け入れてしまっているのであろう。「勧善懲悪」という四字を耳にするだけでひどく因習的な、いわゆる「封建的な」印象を受けてしまう。我々が人生を重ねていくにつれ、正しいこと...
西部邁とのささいな思い出 第五回「表現者塾での初めてのやり取り」【ブログオリジナル記事】
西部邁とのファ-スト・コンタクトを終えた僕は、1年後か2年後に当時西部が講義をしていた表現者塾に行きたいと思うようになった。すでにネットで情報があったかどうか記憶にはないが、ネットか雑誌『表現者』を見たのだろう。表現者塾には塾長というような人もいて、なんか体育会系的であんまいやだなあと思っていたのだが、まあ塾に入るわけではないからいいかと連絡をした。当時の塾長は、西部邁が自殺をした時自殺幇助の容疑で...
残らない記号的文明、残るは手の温もり 映画『無能の人』レビュー
1991年公開、俳優の竹中直人監督作品。原作は、漫画家つげ義春の同名漫画である。-----------つげ義春は、何に反発していたのか。ただの怠惰と言い切るには彼は強情である。漫画家から中古カメラ屋、石屋への転身。我々にはどうでもいいような商売にしか可能性を見出さない「つげ」は、何をしようとしているのか。それは、資本主義の、いわゆるビジネス文明の徹底的な批判なのである。彼の批判は最もなのだ。情報の売買、どうでも...
日本映画の観づらさとはなにか
日本映画の観づらさとはなんだろうかと考えてみる。今の若い子たちは実は洋画ではなく、邦画ばかり観ているようなのだが、僕の世代くらいまではあまり邦画を観る人たちは映画好きにはいなかった気がする。そこで、邦画の観づらさ、なぜ僕は邦画を観ようとしなかったのかということを考えてみると、僕はおそらく映画を「非現実=現実から離れるもの」と考えがちであった。つまり、僕が映画に見出したかったものは、非現実の世界であ...
落ちぶれた左翼、うぬぼれた真性保守
左翼も本当に落ちぶれた。偽善的な反戦平和主義が有効性を失ったのと同様、安易な立憲主義や、「憲法を守れ」という大合唱=叫び(でしかない)は、すでに有効性を失っている。もしこの数年間、立憲民主党が言ったようなことが国民に浸透していったのであれば、小池百合子が東京都知事になってはいないだろうし、立憲民主党の支持率もあんな共産党と変わらないようなものにはならないだろう。偽善性が露呈しているのだ。一方、最近の...
西部邁とのささいな思い出 第四回「ファースト・コンタクト」【ブログオリジナル記事】
大学以降、乱読の限りを尽くしていた僕は、西部邁の本についてはおそらく40冊以上持っていると思う。古本屋で今まで刊行していた本も渉猟していたわけであるが、90年代前半くらいにでていた西部邁のオーディオブック(? カセットが書籍のような形で発売されたもの)も2本くらい持っている。みんなあんま持ってないでしょ?w大学を卒業してからも小林よしのりを追っかけ、次第に西部邁の方に軸足を移すようになったことはすでに言...
好きな禅坊さん(一休や澤木興道について)
僕はあまり仏教について言及することがないのだが、基本的には好意的である。小乗的なものへの志向がありがちなので、今は特に称賛しないようにしているが、禅が好きだった。一休禅師はアニメ『一休さん』で幼少期から親しみがあったが、年齢を重ねてから彼の伝記を見て以降、実際の一休禅師に対しての尊敬の念ががものすごく強くなった。時代が下って明治以降の近代日本の禅坊さんと言えば、アメリカなどでも知名度の高い鈴木大拙...
令和時代の「改革者流」たち
福澤諭吉は当時の改革主義者を揶揄して「改革者流」と呼んだ。令和時代にもいわゆる改革派=「改革者流」が世に蔓延している。改革派は効率をもっぱら主張する。効率を主張するということは、ある社会が則っているルールの円滑的な運用を求めるということであり、ルール自体の不正性などには立ち入らない。つまり改革派は、社会の前提を問うことがないということであり、効率だけを目的とする人たちは、世の中の問題点・世界のでた...
ビロード革命の苦い喜び 映画『コーリャ愛のプラハ』レビュー(ネタバレ注意)
1996年製作。同年のアカデミー賞外国語映画賞を受賞した、チェコの映画監督ヤン・スヴェラーク監督作品である。---------------プレイボーイな初老のチェロ奏者ロウカは、反共的振る舞いによって、チェコフィルハーモニー楽団を追いやられ、今は地味な教会でチェロを弾いている。そんな彼にとって大事なものは若い女と金。実家の借金などで首が回らなくなっていたロウカは、金のためにチェコ国籍を欲しがるロシア女性と偽装結婚す...
思想的断想
「現代の思想の姿」現代では、完成された思想は未完成な姿をしている。※2020年8月16日のツイートを元にした文章です。「格言について」色々な状況で応用可能な言葉はほぼない。いつでも言葉の意味は動揺するし、状況が変われば応用できないことが多々ある。だから、色々な言葉を覚えた方がいいのである。格言・箴言はだいたい一般的なことしか言わないため、なかなか身に迫る言葉とはなりづらい。状況により、変化するからだ。※2020...
くりぃむしちゅーのお笑い・引退について
僕は中学・高校の時は、映画監督か芸人になりたかった。ずっと映画かお笑いを観ていた人間であるのだが、くりぃむしちゅーは海砂利水魚時代から大好きだったと思う。一番最初に彼らを認識したのは、おそらく『ボキャブラ天国』だっただろう。まだ当時で言うと、紳助竜介やダウンタウンなど、不良系のお笑い芸人が多くいて、海砂利水魚も上田がその役を担っていた気がする。有田はもっと暗い感じで、根暗感丸出しだったのだが、いつ...
政治的言論のむなしさについて
僕は言論を追いかけるのをやめて10年くらいになるが、やはりつくづく政治領域は不毛だと思う。政治の語り方を言論人が変えていかないと、これは虚しくしかならない。じゃあ、どの領域が生きているかと言うと、ほぼ全ての領域に政治的な語り方が蔓延しているので、どこも同じである。ポリコレ的な言論しかなくて面白くもなんともないのである。このように考えていくと、精神的に落ちないように言論をやっていくのであれば、「自分の...
西部邁とのささいな思い出 第三回「西部邁との出会い」 【ブログオリジナル記事】
小林よしのりの『戦争論2』に影響を受け、彼の『ゴーマニズム宣言』を読破していた高校3年の僕は、3年になる時文系中の文系という落第クラスに入った(友達が多かったから選んだだけ)。なので、たった3科目を勉強すればよかったはずであるが、英語は65くらいの偏差値があったものの、国語は平均くらい、世界史が偏差値20くらいというとてつもない落ちこぼれであった。基本的に勉強はしていなかったのである。ただ、大学で歴史を勉強...
福田和也のしょぼさ~保田與重郎は見事に媒介である~
三島由紀夫は、保田與重郎の批評を読んで、「氏がむやみに持ち上げてゐる作品に一つ一つ実地に当つてみると、世にもつまらない作品ばかりなのに呆れた」と書いているが、このエピソードは、如何に保田が外部の媒体に頼らない独自の批評世界を持っていたかを証している。批評私観/福田和也これはいかにもそれっぽく見える福田和也の批評であるが、ほんと「っぽい」だけで、全然違うと思う。三島(三島はちょっと政治的な振る舞いの...
政治に関する断想
「国民か人種か」色々考える側面はあるが、国民国家という概念の中に、人種の選別はない。ただ、国民の定義づけはある。しかし、その国民性の判断は人種によるべきではない。ここまでは僕は言える。なぜなら、大事なのは「国民の気風」であり、精神だからです。ゆえに、前言った民族という概念が微妙ではあるのだ。では、国民の精神とは何かと言うと、共有された歴史であり、言語である。日本ではアメリカほどの人種の混在もなく、...
掘り出し物映画を紹介! 映画『蠱惑(こわく) パリで出逢った女』レビュー ※2020年11月8日追記
2005年のスペイン映画。まさに掘り出し物!今作は絶対にお薦め!宣伝した会社は何を考えているのか!確かにエロティックなものは出てくるけれども、単に女性の裸がサービスカット的にあるいはコメディチックに出てくるだけである。宣伝の仕方で殺されてきた映画は数多い中、今作は確実に人口に膾炙する機会を格段に減らしてしまうエロ目当てのパッケージにしてしまい、エロ目当ての人にも全く物足りないものになっているのは間違い...
江藤淳はものを見られたのか
何で見たか忘れたが、江藤淳が占領時の公文書を調べるためアメリカに渡る時、小林秀雄からこう言われたという。「あっちに行っても何もないということを分かってきなさい」(大意)江藤淳は過去を振り返り、その情景を描写しているものの、小林の言った意味をおそらく江藤は分かっていない。また、福田恆存が江藤の『閉ざされた言語空間』に対して、「こんなこと昔からみんな知っていた」と揶揄した。これも結局は小林秀雄と同じ指摘...
責任追及者の非倫理、仮想敵はすべての国家である
『責任追及者の非倫理』責任追及で正義を実現しようとする人間は、その批判した相手がその後どう生きていくかなんて何も考えない。責任感があるようで、ただ他者に対して追及ができると言うだけに人間に過ぎず、とても無責任な輩である。このような人間がもたらす社会は責任追及という正義が乱発され、どれだけ居心地の悪い社会になるか考えた方がいい。みんなで一緒に生きる、なんていう感覚は彼らには断じてない。政府の司法や行...
西部邁とのささいな思い出 第二回「9.11から小林よしのりへ」 【ブログオリジナル記事】
9.11に衝撃を受けた僕は、しばらくして本屋に向かった。不安からか好奇心からか、おそらくその両方からだろう、僕は初めて自発的に活字本を買おうという行動に移っていたのであった。イスラム関連の本が大量に店頭に並び、ウサマ・ビン・ラディンを表紙にした本が数多くあった。ただ、何を読めばいいかも分からず、活字を見るだけでも大変だった僕が選んだのは、当時ちょうどこの事件に反応し、単行本にその事件について書いていた...
三島由紀夫の自死は必然であった
男というのはまったく原理で、女は原理じゃない、女は存在だからね。男はしょっちゅう原理を守らなくちゃならないでしょう。 -守るべきものの価値-こういう三島の言葉遣いの中に、三島が自死へと至らざるを得なかったものを見ることができる。三島の言葉遣いにおける、概念的な定義の固さ、思考の不自由さを見ることは大事だ。言っていることは賛成ではある。文体の特徴は、精神や知性のめざす特徴とひとしく、個性的であるよりも...
歩兵キートン 映画評『キートンの決死隊』(ネタばれ注意) ※2020年10月27日更新
1931年公開、エドワード・セジウィック監督作品。ある女性(サリー・アイラース)の下に通いつめている富豪エルマー(バスター・キートン)だが、いつもその女性にそっけなく扱われる。ある日、雇っていた運転手をクビにしたエルマーは、新たな運転手を雇うために雇用事務所に行くのだが、そこは陸軍志願兵募集の事務所だった・・・。ということで、歩兵”doughboys”となったエルマーの話が始まるのだが、エドワード・セジウィック監督...
保守ぶる保守批判
僕は最近いわゆる真正の保守=保守ぶる保守を批判しているが、それは保守の保守性を批判しているのではなく、彼らの左翼性を批判しているのである。吉本隆明の丸山眞男批判に代表されるような、1960年代の左翼内部の議論における旧左翼批判が一番今当てはまるのが保守ぶる保守なのだ。なんか保守ぶる保守と言うと、プチブルみたいでウケるけれども。ただ、彼らに対してエリート的であるという批判をしたとしても、彼らの教理の中に...
2020年11月 (1件〜50件)